昨日の『
情熱大陸』、
デーブ・スペクターさんの発言は衝撃的だった。
同氏の会社はアメリカにもあり、向こうでしか手に入らないゴシップ雑誌などを定期的に送らせているのだが、それを見た取材スタッフが質問を挟む。
「
小説とか読んだりしないんですか」
これにデーブさんはいくぶん苦笑いをして、
「
小説? そんな暇ないですよ」
と答え、そしてこう続けたのである。
「
所詮つくり話でしょ? 小説より、いまここで起こっていることのほうが面白い」
そりゃそうなのである。いまさら知らされるまでもなく、事実は小説より奇になり。
しかし、だからといって、この発言はたやすく見過ごせるものではない。
すくなくとも、現在のわたしにとっては。
最近、そのつくり話を拵えることに疑問を持ちはじめている。
もちろん、小説そのものから離れてはいない。継続的に執筆はしているし、完成すれば随時、外へも出している。
夏以降は文学にも挑戦している。以前のわたしでは想像もできないような文体と手法で、摩訶不思議な世界観を描いたりもしている。
つまり、執筆そのものは充実しているのだ。不安ながらも手ごたえはある。
しかしその一方で、
ストーリーを練って小説というかたちにするというこの作業を、いったいいつまで続ければよいのかという、なんとも馬鹿馬鹿しい、漠然とした恐怖に襲われる。
たとえアイディアを自分の外から持ってきたにしても、物語そのものは筆者が生みださなくてはならない。よく言う「ひきだし」、あるいは「キャパシティ」の問題がここで噴出する。
それでいて、苦心惨憺の末に書きあげた作品は、面白い面白くない、よく出来ている駄作である、といった評価にさらされ、ときに唾棄される。
そんなもののために人生を賭ける意味はあるのだろうか。現実にはこうして、いくつもの国が生まれ変わり、紛争が絶えず、片やで能天気なメディアが跳梁跋扈する。
こんな世界を生きるなかで、小説を書くことは、はたして意味のあることだろうか。
一篇のフィクションなど、ひとりの命さえ、救えないのに。